日本各地のおすすめ観光スポット!

東北方面

ノクターン号
弘前公園と弘前城【青森県弘前市】

アクセス: ノクターン号 弘前バスターミナル下車 徒歩約25分 もしくは車で約15分

「お城と桜とりんごのまち」弘前市のシンボル

弘前公園(別名:鷹揚公園、鷹揚園)は、藩政時代に弘前藩を治めた津軽家代々の居城であった弘前城が基になっています。弘前市の中心部に位置し、約49万2000㎡にも及ぶ広大な園内には天守や、櫓、城門をはじめ当時の姿を今に伝える遺構が数多く残されています。
弘前城は、別名鷹岡城(高岡城)ともいい、藩政時代に弘前藩を治めた津軽家代々の居城で、津軽地方を統一した津軽為信により慶長8年(1603)鷹岡に築城が開始されました。為信の死により築城は中断しますが、その後2代藩主信枚が築城を再開し、慶長16年(1611)完成、寛永5年(1628)弘前城に改称されました。
春には日本一の呼び声高い桜祭り、秋には紅葉まつり、冬には巨大雪像やミニかまくらも多数作られる雪灯籠まつりが催され、夏に市内を運行するねぷた祭りとあわせて、四季を通じたイベントをお楽しみ頂けます。毎年多くの観光客で賑わう弘前城は、平成23年に築城400年を迎えました。

ビーム1号
龍泉洞【岩手県下閉郡】

アクセス: ビーム1号 宮古駅前下車→電車約2時間→岩泉駅下車→バス約15分

自然の神秘と幻想的な世界

日本三大鍾乳洞に数えられる龍泉洞は、国の天然記念物にも指定されています。洞内は、3,100m以上あり、その全容は5,000m以上に達すると推定されていて、無数の鍾乳石などとともに湧き出る清水が数ヵ所に渡り深い地底湖を形成しています。驚異的な自然の神秘をたたえる洞内の湖水は、幻想的な世界を作り出し、中でも第4地底湖(未公開)は水深120mと日本一で、世界でも有数の透明度を誇っています。龍泉洞入口の向かい側にある龍泉新洞は、世界で初めての自然洞穴科学館として公開されています

ビーム1号
小岩井農場【岩手県岩手郡】

アクセス: ビーム1号 盛岡南下車→バス約20分→盛岡駅よりバス約30分

宮沢賢治もこよなく愛した歴史ある農場

岩手県の代表的観光地として知られ、「小岩井農場まきば園」等の施設が一般に開放されています。毎年2月上旬には、40年以上の歴史を誇る「いわて雪まつり」が開催される他、観光向けにトロ馬車馬車鉄道も運行され、年間を通して様々なツアーやイベントをお楽しみいただけます。また、場内には文化財となった建造物が9棟あり、すべて明治末期から昭和初期にかけての建築で、その半分以上が現役で使用されています。岩手山を背景に立つ一本桜も有名で、季節を問わず雄大な景色を楽しむことができます。

ビーム1号
盛岡城 盛岡城跡公園(岩手公園)【岩手県盛岡市】

アクセス: ビーム1号 盛岡南下車→バス約20分→盛岡駅より徒歩約15分

石垣造りの東北三大名城のひとつ

南部(盛岡)藩主の居城であった盛岡城の旧跡で、かつて不来方(こずかた)城とも呼ばれた盛岡城跡は、今は岩手公園として市民に親しまれています。白い花崗岩がふんだんに用いられた総石垣ご特徴の盛岡城は、盛岡藩初代藩主南部信直により慶長2年(1597)に嫡子利直を総奉行として築城が開始され、36年後に3代目藩主南部重直が入城を果たします。信直の死後、家督を継いだ利直は関ヶ原の戦いで山形に出陣、大阪冬の陣にも参陣し、江戸幕府との関係強化に務めました。盛岡名物「わんこそば」は、江戸に向かう利直が花巻城に立ち寄った際、椀で供されたそばのおいしさに何杯もおかわりしたことから「わんこそば」と呼ばれるようになったといわれています。

近畿方面

シルフィード号
天橋立【京都府宮津市】

アクセス: シルフィード号 西舞鶴駅下車→電車約1時間

由緒ある歴史と伝承を伝える神秘の造形

“国をお生みになった大神の伊射奈芸(いざなぎ)命が天に通おうとして梯子を造り立てたもうた”という伝承ある地、天橋立。京都府北部、日本海の宮津湾にある天橋立は、日本三景とされている特別名勝のひとつです。全長約3.6kmの砂浜で、約8,000本もの松が茂っている珍しい地形で、その形が天に舞う白い架け橋のように見えることから『天橋立』の名が付きました。遠い古代を偲び「股のぞき」すると、一瞬目の錯覚により、天につながっているように見える天橋立は、日本百選にも多数選ばれており、「名松」「白砂青松」「渚」「道」そして、真水の湧き出る井戸・磯清水は「名水」の百選に選ばれています。

シルフィード号
赤れんが博物館【京都府舞鶴市】

アクセス: シルフィード号 東舞鶴駅下車→徒歩約15分

現存する日本最古級の鉄骨れんが建造物

舞鶴市には、明治34年の旧海軍舞鶴鎮守府の開庁に伴い、海軍が建設したものを中心に砲台や鉄道施設、全国に4基しか残っていないホフマン窯など、今なお数多くの赤れんがの建造物が現存し、風雪を経た赤れんがはエキゾチックな雰囲気をかもし出しています。赤れんが博物館は舞鶴の魅力の一つとなっている、れんがとその歴史を多くの方々に理解していただくことを目的に開設されました。建物は明治36年に旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫として建設されたもので、本格的な鉄骨構造のれんが建築物としてはわが国に現存する最古級のものとされています。

シルフィード号
福知山城【京都府福知山市】

アクセス: シルフィード号 福知山駅下車→徒歩約15分

福知山の城下の基礎をつくった戦国武将 明智光秀

福知山城は、天正7年(1579)、丹波を平定した明智光秀が丹波の拠点として築城したのが始まりとされ、慶長5年(1600)の完成と推定されています。福知山城は、市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端に位置し、その地形の姿から臥龍城の別名を持ちます。光秀は、織田信長の命を受け丹波国征討戦を開始します。丹波国を平定すると、攻略した横山城を修築し、城名も「福知山城」と改め城主には娘婿の明智秀満を置きました。天正10年(1582)6月、本能寺の変となり光秀は勝利しますが、天王山麓の山崎の戦いでは敗北し、後に殺害されます。光秀の在城期間はわずか3年間だけでした。福知山城は、光秀が築造後、近世的な城郭としては有馬豊氏時代に完成したものと推定されています。天守閣は、望楼型の独立式を基本として復元され、初期天守閣の特徴がよく現れたものとなっています。野面積み、乱石積み、穴太積みなどと呼ばれる、自然石をそのまま用いた石垣は、築城当初の面影を残していて福知山市の指定文化財となっています。現在は、福知山城公園として整備され、昭和61年(1986)三重三階の大天守と二重二階の小天守が復元され、その復元天守は福知山市郷土資料館の施設にもなっています。

中国方面

キャメル号
鳥取砂丘【鳥取県鳥取市】

アクセス: キャメル号 鳥取駅前下車→バス約20分

圧倒的なスケールと美しさ

日本三大砂丘の1つである鳥取砂丘は、山陰海岸国立公園の特別保護地区に指定されていて、日本海海岸に南北2.4km、東西16kmに広がる日本最大の観光砂丘です。昭和30年に国の天然記念物に指定され、平成19年には日本の地質百選に選定されました。早朝、まだ誰の足跡もつかない砂丘一面に広がる風紋は、その雄大なスケールと芸術的な美しさに圧倒されます。日本海に沈む夕日もすばらしく、時間の経過とともにかわりゆく空と海の色合いが絶景。鳥取砂丘では、ラクダ遊覧や馬車遊覧などの観光遊覧の他、起伏のある斜面を利用して、パラグライダーやサンドボードなどのスポーツも楽しむことができます。

キャメル号
鳥取城【鳥取県鳥取市】

アクセス: キャメル号 鳥取駅前下車→バス約10分

織田軍×毛利軍 激突の舞台 羽柴秀吉による鳥取の渇え殺し

鳥取城は、久松山城ともいわれ、中世城郭として成立、戦国時代には織田信長の家臣羽柴秀吉と毛利軍との戦いの舞台(中国攻め・鳥取城の兵糧攻め)となった城で有名です。天正8年(1580)、信長の命による秀吉の第一次鳥取城攻めで、因幡国大名の山名豊国は信長に降伏。しかし時を同じくして攻め来た毛利軍にも降伏します。毛利家への従属を主張する鳥取城家臣団は信長に臣従する豊国を追放。毛利氏より新たな城主吉川経家(きっかわつねいえ)を迎え入れます。翌年の天正9年(1581)、秀吉は因幡国に進攻、帝釈山(現在の太閤ヶ原、本陣山)に本陣を構え、後に「鳥取の飢え殺し」「鳥取の渇え殺し(鳥取の渇殺し)」とも言われる、第二次鳥取城攻めえを開始することとなります。秀吉はこの攻撃に際し、前もって米を高値で買い占める一方、毛利勢の兵糧搬入を徹底的に阻止します。この作戦により、瞬く間に城内の兵糧は底を尽き、餓死者が出始めます。それでも経家は籠城を耐えに耐え抜きますが、遂に降伏。秀吉は経家を織田家に帰順させようとするも、経家は自刃の決意固く、自らの切腹と引き替えに城兵の命を助け、鳥取城は降伏開城しました。

キャメル号
米子城跡【鳥取県米子市】

アクセス: キャメル号 米子駅前下車→徒歩約15分

大小天守を持つ山陰随一の名城

米子市の中心地、標高90mの湊山に築かれた米子城は、山陰地方で他に先駆けて築かれた本格的な近世初期の城郭です。「久米城」、「湊山城」とも言われ、応仁から文明年間(1467~1487年)に、山名宗之(やまなむねゆき)によって砦として飯山に築かれたのが始まりと言われています。江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁でもありました。現在、「城山」と呼ばれている湊山の本格的な城としては、安土桃山・江戸前期の武将で西伯耆の領主となった吉川広家(きっかわひろいえ)が天正19年(1591)に築城を開始します。しかし毛利氏家臣の広家は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に敗れ、吉川氏は岩国に国替えとなります。その後伯耆国領主として中村一忠(なかむらかずただ)が封せられ、慶長7年(1602)頃、米子城は完成したと伝えられます。しかし慶長14年(1609)に一忠が急死、中村氏が断絶すると会見・汗入の領主として加藤貞泰が入城、近江聖人中江藤樹も米子にやって来ました。寛永9年(1632)には、鳥取藩主席家老の荒尾成利が米子城主となり、11代に渡って荒尾家が政治を執り行いました。明治2年(1869)、米子城は士族に払い下げられ、全ての建物が取り壊されました。当時の建造物は全て失われてしまいましたが、石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめ、文献や絵画資料なども数多く良好な状態で伝えられており、平成18年(2006)に国史跡に指定されました。付近には米子市立山陰歴史館があり、四重櫓の鯱や米子城天守の模型など米子城にまつわる歴史資料をはじめ、市内から出土した考古資料や、民俗資料など米子の歴史を物語る様々な資料が展示されています。現在、湊山周辺は、「湊山公園」として市民の憩いの場として利用されており、西伯耆を一望できる天守台からの眺望は、多くの人々から親しまれています。

四国方面

エディ号
鳴門海峡

アクセス: エディ号 高速鳴門下車→バス約25分

日本最速、世界最大規模の豪快な渦潮

鳴門海峡は、日本百景にも選定された美しい景観と、世界最大級の渦潮が発生する場所として大変人気の高い観光名所です。播磨灘と紀伊水道を結ぶ鳴門海峡は、その特殊な地形と、干潮・満潮時刻が正反対なことから、日本最速にして世界の三大潮流に上げられる、激しい潮流と豪快な渦潮を作りだしています。鳴門市内には、迫力ある渦潮を観察するための施設がたくさんありますが、中でも全長450mにおよぶ大鳴門橋遊歩道『渦の道』ではこの世界最大規模とされる渦潮を、海上45mの高さから眼下に観察できます(有料)。また、季節のイベントとして阿波踊りも同時に楽しむことができます。

エディ号
眉山(眉山公園)【徳島県徳島市】

アクセス: エディ号 徳島駅前下車→徒歩約10分→ロープウェイ約6分

標高290mの徳島市のシンボル

「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山」と万葉集にも詠まれた眉山は、どの方向から見ても「眉(まゆ)」のような形に見えることからそう呼ばれ、徳島市のシンボルにもなっています。山頂一帯は眉山公園となっており、慰霊塔パゴダ・モラエス館・展望休憩施設などがあります。山頂からの眺望は素晴らしく、徳島市街はもとより、天気の良い日には淡路島・紀伊半島までもが一望できるほか、美しい夜景も一見に値します。また、春の桜・秋の紅葉と、四季の移ろいも美しく、訪れる者を楽しませています。山頂へのアクセスはロープウェイのご利用がおすすめ。素晴らしい景観とともに空中散歩をお楽しみください。眉山ロープウェイ山麓駅にもなっている阿波おどり会館では阿波踊りの歴史と魅力も紹介しています。

エディ号
徳島城 徳島中央公園(徳島城跡)【徳島県徳島市】

アクセス: エディ号 徳島駅前下車→徒歩約10分

阿波の青石で築かれた蜂須賀家政による名城

天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の功により蜂須賀家政は阿波一国を賜り、現在の地に大規模な平山城を築造、翌年徳島城が完成しました。一説によると、阿波踊りは、城の竣工を祝して家政が城下に酒を振る舞い、町民らが踊り狂ったことが発祥とも言われています。蜂須賀家政は安土桃山・江戸前期の武将で阿波(徳島)藩祖。織田信長、次いで豊臣秀吉に仕え、秀吉が信長の命で行った中国毛利攻めには黄母衣衆として父正勝と共に従軍しました。天正10年(1582)、信長が本能寺の編で明智光秀に討たれると、秀吉に従って山崎の戦いにも参加します。関ヶ原の戦いでは西軍に属するも自身は出陣せず、長男至鎮を東軍につかせました。徳島城は、廃藩置県まで蜂須賀家が支配しますが、明治に入って建物は破却され、唯一鷲の門だけが残されましたが、昭和20年の徳島大空襲で残念ながら焼失してしまいました。平成18年1月26日、徳島城跡が国史跡指定となり、現在では徳島城博物館とともに城跡公園として整備されています。身近なレクリエーションの場として、また、象徴的な存在として市民に親しまれています。

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